医者は
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の
津田は無言のまま帯を
「腸まで続いているとすると、
「そんな事はありません」
医者は
「ただ
「根本的の治療と云うと」
「
津田は黙って
津田は袴を
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず
「
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。
その時看護婦が津田の
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は
彼は不愉快になった。急に気を
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
「この肉体はいつ
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
彼は思わず
彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが
彼は電車を降りて考えながら
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が
「ちょっと今のうち
津田は仕方なしに手を出して
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。
「今日帰りに小林さんへ寄って
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、
同じ話題が再び夫婦の
「
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。
津田は細君の顔を見て苦笑を
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は
「
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も
津田は自分の受けべき手術についてなお
「手術ってたって、そう
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。
「吉川さんに話したら
入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が
「
津田は苦笑した。
「
今度は細君が苦笑した。
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で
「また御勉強?」
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに
彼が黙って
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから
しかし今彼が自分の前に
「そう
彼は黙って
「おいお
彼は
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
お延は
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も
「それで
津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は
「あなた、あなた」
同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を
「何か御用なの」
彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
御延は玄関の
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
津田はようやく茶の間へ引き返して、
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の
「いったいどういう訳なんでしょう」
津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して
「貸家が二軒先月末に
彼は開いた手紙を、そのまま
「なにそんな家賃なんぞ
津田の言葉に
「御父さまはきっと
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の
津田は
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか
「でもほかに
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
「
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、
お延が一概に津田の依頼を
「そんなに楽な身分のように
「あたし吹聴した
津田は
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした
「
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は
「そうです。ちょっと……」
「そんなら
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を
午後になってから彼は
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる
「ええ
毎日人の
時間になった時、彼はほかの人よりも一足
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に
「まだ御帰りになりません」
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の
「奥さんができたせいか近頃はあんまり
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に
「まだ
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう
「早いものね、ついこの
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
吉川の細君はこんな調子でよく津田に
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に
「
津田の顔が急に堅くなった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を
「御気に
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
その時二人の頭の上に
「いつだって構やしないんでしょう。
彼女はさも
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を
彼が用事を済まして
「また子供のように泣いたり
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり
「あなたに
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない
冷たそうに
彼は無論この
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに
それは何とも云えなかった。彼女は元来
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。
車内の
「
そう思うと、自分が気を
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い

津田は同じ気分で自分の
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい
「そうかね。もっとも
「そんな事がなくったって、
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の
彼は神田にいる
「お延
「そう。でも……」
お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の
やがて彼は決心して立ち上った。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
細君の耳にはこの形容詞が変に
「女のならあるわ」
津田はまた自分の前に
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
津田は
「
「うん」
津田は
「待っていらっしゃい。じきだから」
お延はすぐ下へ降りた。やがて
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ
「御父さんが死んだ
彼が父の
「その時はその時の事だ」
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
津田は礼を云って
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、
佐々木は彼の
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ
吉川の言葉はよく彼の
「都合がよければ
「へえ」
こう云われた津田は
彼の
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い
「へえ、ありがとう、お
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。
津田は自分の父がけっしてこれらの人から
「父はもう
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から
この陰気な
津田は長椅子の
その一人は事実彼の
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然
すると診察所から
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に
奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い
「今ちょうど二階が
津田は
津田の
彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ
津田は
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な
「いつの間に拵えたのかね」
彼が手術のため一週間ばかり
「
「いいえ、これあたしの
なるほど若い女の着る
「とうとう
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに
お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
津田の
「気を許して寝ると、
彼は云い訳らしい事をいって、
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと
「今すぐ?」
お延は
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の
「
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の
「おやおやこれ
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い
「今日は病気の報知かたがた
彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間
「
叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に
彼の父は今から十年ばかり前に、突然
「兄貴はそれでも少し金が
しかし金の重みのいつまで
実際の世の中に立って、
彼の知識は豊富な代りに
こういう人にありがちな
津田の
一時少し前に
彼は道々

「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この
彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい
津田は
「今学校の帰りか」
「うん」
子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
自分が
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
彼は例の袋を片手でぐっと
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、
津田は叔父の子供をふり返った。
「おい
真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を
「そうしてどうするの」
そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の
「小父さん何か買ってさ」
宅で
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。
「あいつは玉子は出すが
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して
「赤かったのを
津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか
「だってみんなが
藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
津田はもし懐中が許すならば、
「真事、そんなにキッドが買いたければね、
彼は
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
彼は隠袋の中へ手をぐっと
「小父さんも拾ってさ」
最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の
「
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから
好い加減をいうとすぐ
「あの岡本って
話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の
「
「ううん、行かない」
「また
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ
ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
津田は小首を傾けた。

「真事なぜお父さんに
「僕
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
真事は少し
「あのね、岡本へ行くとね、何でも
津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり
津田は
「
彼は
彼は曲り角の
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、
「叔母さん」
叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ
津田は
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために
「ねえ叔母さん」
「ええ」
気のなさそうな
「お金さん
お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お
叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ
叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの
お金さんはそれを好い
「時に誰です、お客は」
叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
津田は客間にいる声の主を、
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
叔母は
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか
想像の眼で見るにはあまりに
津田は微笑しながら叔母に
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い
「へえ、小林にもそんな
こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、
「お
いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ
叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな
叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には
「そんな
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける
藤井は四年
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを
「まさか
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ
相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも
「これでもいざとなると、なかなか
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ
叔母は
「由雄さんはいったい
学校を卒業してから以来の津田は叔母に
「ええ少し贅沢です」
「
「じゃ贅沢どころかまるで
「乞食じゃないけれども、自然
この時津田の胸を
この二人の
奥の四畳半で
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を
小林はホームスパンみたようなざらざらした
「へへ、
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな
津田は叔母の手前重ねて
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に
津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
この
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
薄暗くなった
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の
「しかし僕は
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく
彼の
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの
「纏まるだろうよ」
叔父は
「
小林の
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
津田はこういって
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
叔父は少し
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
それでも座は
小林は自分の前にある
「
「
真事はすぐ
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
すぐ立って奥の四畳半へ
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に
「見て来たような事を云うな」
空気銃の
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと
叔母の見て来た世の中を正直に
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな
津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、
二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその
「何だか双方
彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
そろそろ酔の廻った叔父は、
「実を云うとその訳を
「ええ」
津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような
津田も小林も吹き出した。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
叔父はにやにやしながら、
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって
この問答の途中へお
「そりゃ
「どうだか存じませんよ」
叔母は真事の立った
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は
「女だと思ってます」
津田は
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり
食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は
半日以上の暇を
彼は座を立とうとして小林を
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう
小林はすぐ吸い残した
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、
「何って別にする事もないでしょうよ」
こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお
「ありがたい仕合せだな」
「
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
叔父は笑うだけであった。
「
「いったいお
津田は少し
「お秀に
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
津田はとても
「
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
小林は新調の
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
津田はむしろ冷やかに答えた。
「なぜその
「君と
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し
津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。広い谷を
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして
津田はこういって当面の
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて
自分に都合の好い
「君が
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
二人は黙って坂の下まで降りた。
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は
「僕もそっちへ行くよ」
彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を
「じゃ飲もう」
二人はすぐ明るい
服装から見た彼らの
「どうだ平民的でいいじゃないか」
小林は津田の
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
「少くとも
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
津田は
「君はこういう人間を
こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
出し抜けに呼びかけられた若者は
「まあ君一杯飲みたまえ」
若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
インヴァネスを着た小作りな男が、
「何だか知ってるか」
津田は元の通りの姿勢を
「何だか知るもんか」
小林はなお声を低くした。
「あいつは
津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある
「あの眼つきを見ろ」
薄笑いをした津田はようやく口を
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り
鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な
小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は
露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に
小林の言葉はだんだん
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の
「君は僕が汚ない
津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お
「そうか。そりゃ悪かった」
もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも
そんな特別の理由を津田は
「実はこの着物で
津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに
長い間叔父の雑誌の
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に
その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も
「要するに僕なんぞは、
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
小林は津田の言葉から何らの
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ
津田の言葉は誰にでも解り切った
「津田君、僕は
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて
「君が行ったらお
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた
「旅費は先生から借りる、
これがその晩小林の口から出た最後の
彼の門は

彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に
彼は手を
「どなた?」
潜りのすぐ向う側まで来た足音が
「早く開けろ、おれだ」
お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。
ごとごと云わして

茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。
「どうもすみません」
津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり
お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって
「
こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の

「時はどうしたい」
「もう
下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると
「今
津田は眼をぱちつかせて、赤い
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の
「あんまりおつくりが
彼はすぐ心の
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな
「
お延の漢語が突然津田を
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に
普通の食事を取らない彼の
「病院へ持って行くものを
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の
「ここに
よそ
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの
「そう、本はどれが
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ
天気が好いので
「大変。忘れものがあるの」
車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。
「何だい。何を忘れたんだい」
お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
彼女は自分の俥だけを元へ返した。
「これ忘れたの。
夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人
「お前預かっておいで」
じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、
「大丈夫」
俥は再び
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
津田は車夫から受取った
「お延こっちだ」
控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を
「大変陰気な
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は
もと
「古いけれども
日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少
そこへ
「今
二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの
「あたし
お延は実際怖そうに
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の
「でもこんな場合には誰か
津田は
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に
津田は女に
「じゃ
「お
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって
「そりゃそうだけど……」
お延は後を云わなかった。津田も
看護婦がまた
「
津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり
年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の
お延は
「でも
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
お延は
「じゃお秀さんへかけるのは
こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。
前後して
「リチネはお飲みでしたろうね」
医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に
「飲みましたが思ったほど
「じゃもう一度
浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
「どんなです。痛かないでしょう」
医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために
「大丈夫です」
「そうですか。もう
こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る
彼は大きな眼を
「やっと済みました」
むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした
「
最後の注意と共に、津田はようやく手術台から
診察室を出るとき、
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――
自分自身に多少
お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
津田ははっきりした返事も与えずに
「お薬はいただかなくっていいの」
彼女は
「別に内用のお薬は召し上らないでも
看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
お延は
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
時計の
津田は再び
「今から
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
お延の返事はいつまで
「心持が悪いの?」
「いいや」
念を押したお延はすぐ
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に
「そうか」
津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの
津田は黙ってしまった。何といって彼女を
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に
「ああ」
お延は
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から
「どうもお待遠さま」
津田の
津田は床の上に
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ
車上の彼女は
俥は茶屋の前でとまった。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の
「見えて? 少しここと
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の
「遅かったのね。あたし
年の若い彼女は、まだ津田の病気について
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、
幕が引かれてから、始めてうち
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその
「あたしお母さまと
「そう。また
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ
「今日も持って来たの?」
お延は
「今日の予言はお
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、
「
「
今まで黙って三人の会話を
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを
母は隣りにいる人の注意を
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の
「
これがお延のとうから
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の
「世間には津田よりも何層倍か
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし
お延は隠れるように身を
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の
そこから見渡した
「何を買ってるの」
「今困ってるところなのよ。
「駄目よ、あの子は、
売店の男は笑い出した。お延はそれを
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた
こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも
「こうやって
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと
二人が声を出して笑い合っている
「もう
彼女はすぐお延を
比較的静かな
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い
席に戻った二人は愉快らしく
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。
「百合子さん」
妹は少しも
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに
実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ
お延の眼は急に舞台を離れた。
「
「今ここじゃ話し
お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で
「叔父さんといっしょに来たんだよ。
二人の会話はそこで
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の
叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
男はまた戸をそっと
彼女が叔父叔母の
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
鋭い
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を
「あなたは私より純潔です。私が
二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の
夫人に投げかけた
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに
「どうですかけたら」
吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
お延は仕方なしに夫人の前に着席した。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
ちょうど叔母と話を
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく
「あなたのような落ちついた
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
三好を中心にした洋行談がひとしきり
彼女はこの談話の進行中、ほとんど
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが
お延は不意を打たれて
「いいえ、大変面白く
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの
「じゃ
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と
「今度はお
継子が顔を
「でも岡本さんにゃ自分の
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
彼らほど
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに
「ただ今
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の
「君は相変らず
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が
「おおかた重過ぎてその外国人を
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、
「何を
「エドワード七世の
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は
こんな

「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその
彼らの席を立ったのは、男達の
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその
「
この
お延は夫人のこの挙動を、自分が
「ありがとうございます。お
「もう手術をなすったの」
「ええ
「
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。
「病院へ
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が
夫人は医者の名前と
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて
芝居が
茶屋は幸にして
「今日は
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は
「泊っていけったって、あなた、
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お
「何よりもって
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を
津田の
下女は
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという
「早く玄関を

下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして
こういう立場まで来ると、彼女の空想は
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。
彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから
彼女はその光で枕元に取り散らされた
彼女はこの乱雑な有様を、いささか
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、
それでも彼女は容易に起き上らなかった。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ
お時の御給仕で
「
「へえ、
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に
三十分ほど
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の
「
「どこへ行くの」
「お
去年女学校を卒業したこの
「何のお稽古? トーダンス?」
彼らはこんな
「まさか」
彼女はただこう云って
「冷かすから
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを
岡本の
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
植木屋の横には、大きな
「そいつを今その庭の入口の門の上へ
お延は
「へえ。あの
「うんその代りあすこへは
近頃
「食後の運動には好いわね。お
「
お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一
自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
「御給仕をしたくったって、
下女が皿の上に狐色に
「お延、叔父さんは
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
叔父は叔母を
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で
肥った
「だってあたしの悪口は叔父さんのお
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を
「少しこっちにも
「おお
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、
「この叔母さんなら、ちょうどお
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、
「いくらお
年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば
こうして叔父夫婦を
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は
お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に
不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を
叔父の前に坐ったお延は自分の
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
感傷的の気分を笑に
「
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような
「解らないわ。
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が
こんな事で、二人の
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事
「
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の
ただ親類だからというのが
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、
お延はその問題をそこへ
「なるほどそういう意味
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の
「実はお前にお婿さんの
叔父の平生から推して、お延はどこまでが
「まあ大変な御役目を
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を
「あたしのようなものが
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから
「
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に
「人間はよく
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その
「それっきりかね」
「だって、あたしあの
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに
お延は
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり
「あなたがあんまり
叔母の態度は、叔父を
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
お延は自分で自分の夫を
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは
「なぜでしょう」
お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は
「なにきまりが悪いばかりじゃない。
お延は初めて叔父に
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり

お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って
「来年はあの松の横の所へ
お延は何の気なしに叔父の
「本当ね。あすこを
談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
それは叔父が先刻玄関先で
まだ学校から帰らない
「
叔母はわざわざ百合子の
「今日は何のお
叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と
中途で
「
お延の頭に
「継子さんは
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の
叔父が
すると今まで
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
彼女は
「そんなに人が悪うがすかな」
例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして
「おれの
お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを
叔父の
「お延どうかしたのかい」
こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
叔母の
「何もそんなにまでして、あたしを
叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。
「そんな事
沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの
「いいえ。
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから
「だから
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
お延はなお泣き出した。叔母は
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。
お延は
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し
ようやく
ところへ何にも知らない
「ただいま」
和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを
「お帰んなさい」
「遅かったのね。
「いや大変なお
神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に
しかし下女が
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
叔母は
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ
お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して
立って行く叔母の
「あたしのお部屋へ来なくって」
二人は
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも
四方を見廻したお延は、

「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く
「厭よ。あなたが
二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン
「
「あなたこそ狡猾いわ」
しまいにお延が負けた時には
「雑巾なんか
彼女は転がった
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた
継子は少し
「延子さんは
「そりゃ……」
お延は
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
だんだん
「そりゃ
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
お延は答える前にしばらく
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
お延はそこで
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を
継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど
「誰を」と云った彼女は少し
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
平生
「あなたあたしの云う事を
こう云って絶対に継子を
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の
お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の
彼女の机を
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
こう云った百合子は年上の二人と共に声を
「今頃お
お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは
「運動が足りないからでしょう」
二人が話しているうちに、百合子は
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
薄赤くなった継子は急に
「おお大変大変」
入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから
一家のものは明るい室に
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が
「西洋では」
西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう
「お父さま、僕この
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。
「一さん藤井の
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で
みんなを笑わせた真事の逸話の
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を
「一の方が少し
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。
これらの原因が
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら
「馬鹿らしい、好い年をして」
お延と叔母はこもごも
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は
お延の興味は急に
「昔から
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな
お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て
叔父の言葉のどこまでが藤井の
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても
「ええ、わざわざ陰陽不和を
お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで
彼はさも勝利者らしい顔を
「おいお延好いものを持って来た。お前
「何よ」
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は
「へええ」
「みんな
「なるほど叔父さん
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
お延が礼を云って書物を
「これは
お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく
お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして
叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい
お延は叔父の送らせるという
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて
二人は途々夜の
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が
車内のお延は別に
玄関の
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も
するとお時が急に忘れたものを思い出したように
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が
お延はその晩京都にいる自分の両親へ
彼女は落ちつけなかった。不安から
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。
「
これが彼女の
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を
彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し
しまいに筆を
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。
お延は封書を枕元へ置いて寝た。
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに
二人は
由雄はその時お延から
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には
お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と
強い意志がお延の
彼女は自分の手で雨戸を
彼女は自分で床を上げて座敷を
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、
「今日は
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。
お延の
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな
お時は何か云おうとした。お延は下女のお
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら
「そんな事はございません」
お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
お時は
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を
彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に
彼の談話には気の弱い女に
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の
お延はすぐ
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに
出してやらないと小林を
「いくら酔払っていたって気は
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり
「やッぱり細君の力には
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、
「それよりあなた御自分で奥さんをお
小林は頭を
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて
「いくら女が余っていても、これから
駈落という言葉が、ふと芝居でやる
「
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も
「へえ」
小林はこう云ったなり
「僕だって朝鮮
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう
「奥さん、僕にはたった一人の
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を
「あなた
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に
自分のまだ知らない夫の領分に
お延は平生から小林を軽く見ていた。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を
お延は
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも
小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を
「奥さん、時間があるなら、
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか
お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
小林の顔には皮肉の
「何という
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。
小林の眼は
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと
小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の
「奥さん、僕は人に
お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも
「
小林は多少
「奥さんは
小林はまた大きな声を出して笑った。
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の
「じゃあなたは私を
「いや目的はそうじゃありません。目的は
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな
小林の筋の運び方は、少し
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って
お時は
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん
彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを
「思ったよりだいぶ
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。
「どうせただ貰うんだからそう
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな
「どうですか」
小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい
「ちょうど好いようですね」
彼女は誰も自分の
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を
「奥さんのような
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。
彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて
二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする
その時小林の太い
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
小林は応じなかった。問答が
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
鋭どい
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
お延は歯を
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして
「お待ちなさい」
「何ですか」
小林はのっそり立ちどまった。そうして
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は
「外套の事じゃありません」
小林はわざと
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に
お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
お延は依然として下を向いたまま口を
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその
小林はこう云った後で、
幸いにお時が下から
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を
お延は
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある
封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に
突然疑惑の
お時が
時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で
「どうもすみませんでした」
彼女は自分の専断で病院へ行った
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
お延は
「あのお客さまは、ずいぶん――」
しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが
「
お延は
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、
お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな
「そう」
お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも
お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び
彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から
お秀がお延から津田の消息を電話で
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた
こういう場合に彼らはけっして
第一に彼らは普通の兄妹として親しい
ふと首を上げてそこにお秀を
彼女は何より先にまず、枕元にある
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の
津田は後を
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ
彼は
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お
別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か
「どこか痛いの」
津田はただ
「そんなに痛くっちゃ困るのね。
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
津田は
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから
津田にも大よその
「またあの事だろう」
津田はしばらく
「だからあたしの方じゃ
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな
お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
津田の所へは父の方から、お秀の
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには
津田は何とも答えなかった。お延の
袍「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、
お秀はわざと眼を
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
津田はようやくお秀
彼は
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
お秀には自分の
「
学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を
不断から
「いったい
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃ
お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、
「いったいどうしたらいいんでしょう」
お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を
「そりゃ
津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は
「そこなのよ、兄さん」
お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、
こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な
ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした
感情と理窟の
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって
「あら、
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
お秀の兄を
「できなければ死ぬまでの事さ」
お秀はついにきりりと
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
津田にとってそれほど
その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。
「できなければ死ぬまでさ」と
同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に
二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の
しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は
「電話で釣るんだ」
彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。
この
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の
「何をいうか分らない」
津田の心には突然一種の恐怖が
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱
津田はお秀の口から出た
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
この調子で押して行くと彼はただお秀から
同時に
そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん
「兄さんはいったい
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜ
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
津田は答えなかった。お秀は穴の
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の
「大変な
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは
津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
お秀は急に
「だけど兄さん、もし堀のいない
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
二人は黙らなければならなかった。
しかし二人はもう
「お秀病院で飯を食って行かないか」
時間がちょうどこんな
「どうせ
お秀は津田のいう通りにした。話は
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの
「そうかい」
津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を
お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
今度は
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し
「兄さんのお
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしを
「誰が」
不幸な言葉は二人の間に
「兄さんこそ違ったのです。
津田から見たお秀は彼に対する
「おれはお前の考えてるような
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を
こういう言葉が
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
彼は神経の
津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと
この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
お秀はそうだと答えたいところをわざと
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った
津田は表向どうしても負けなければならない形勢に
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った
津田は
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、
「
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するがいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその
お秀は
「
お秀は鋭どい声でこう
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を
「何が」
「なぜ
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と
津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
津田の
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に
「そう私を
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは
「妹より
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを
お秀がこう云いかけた時、病室の
彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の
実際彼女は
彼女はその
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を
彼女はそっと階子段を
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は
彼女は事件が
彼女は
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を
二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の
「おや」
「
軽い
津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら
お延はまた
「今
お延の言葉は
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
津田の
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は
「何と書いてありますか、兄さん」
気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の
「秀子さんの方へもお父さまから何かお
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお
お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの
お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の
「兄さんはその底に何か
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に
お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその
「それで
「困るのね」とお延は
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
津田は
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。
「ええ
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお
「馬鹿」
馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを
「素直にも
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって
「じゃどうすればいいんだ」
「
三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に
お延は
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ
沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや
お延はなお黙っている津田の顔を
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお
お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
三人は妙な羽目に
しかも
しまいに津田とお秀の間に
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお
津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに
「でなければ何も
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
津田は口を閉じた。お秀はすぐ
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
津田は一種
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に
お秀の手先が怒りで
「
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと
彼女はこう云いながら、
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の
不幸にして津田にはお延の
「こりゃいったいどうしたんだい」
この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で
これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を
彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から
「こうしておけばそれでいいでしょう」
津田に話しかけたお秀は
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の
「実は
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその
「少しや
こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、
この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして
お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして
お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう
お秀の断り方は妙に落ちついていた。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに
「これは
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に
これはお延自身に解っている
彼女はなぜ岡本が
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を
「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。
久しぶりに夫と
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが
こう決心するや否や彼女は
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に
「
津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然
「そりゃ
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん
お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を
自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも
津田はかえって自尊心を
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、
津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
二人はいつになく
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の
二人はこういう風で、いつになく
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
洗濯屋の男は、俗歌を
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を
一にはこの間訪問した時からの
二には京都の事が気になった。
お延がなぜこういう
津田は洗濯屋の
表はいつか
下から
「まだ
彼はこう注意して、じかに局部を
取り
「やッぱり予定通りの
医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の
「娘の父が青年に向って、あなたは
「愛と虚偽」
自分の読んだ
津田は
お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は
柳の木の
彼の予覚はすぐ事実になった。彼が
「どうかね」
彼はすぐ
「これだ」と彼は外套の
「ありがとう、お
小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに
「君があんまり
「いや苛めやしないよ。ただ少し
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、
「そりゃもうお延さんから
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を
津田が小林に
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。
彼はこう云って
「こんなものを読むのかね」と彼はさも
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると
津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
津田はついその
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
小林はまた「そうか」という言葉を使った。この
「しかし君は僕などと違って
「
「先生でも奥さんでもさ」
藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
津田の頭に妙な暗示が
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
こういう彼は、平気で自分の妹のお
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった
不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
その朝藤井へ行った彼は、そこで
小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。
しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に
「
「君はまた
小林は苦笑しながら頭を
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ
お秀にはどこか片意地で一本調子な
津田は心の中で、この叔父と妹と
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が
小林はますます笑った。彼は笑うたびに
「
津田は面倒臭そうに小林を
「よし
小林は
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
小林はここだという時機を
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
津田は不思議がらざるを得なかった。
ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を
津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは
結果の上から見た津田の
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事
津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても
「ずいぶん
突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――
津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との
「女はあさはかなもんだからな」
この言葉を
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから
こう云った小林は
「しかしもう少し待ってたまえ。
津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは
お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。
津田の頭に二つのものが
残る一つの
附帯条件として、小林を早く
津田は
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と
「
「いや単なる好奇心だ。それに僕は
津田は
「君もよほど
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
小林は別に
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に
津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を
看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、
「電車で行くようにして下さい」
彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
二階へ帰って来た
津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ
手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた
ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその
しかし津田の
その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。
お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に
堀の
藤井や岡本の
市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、
その上
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の
一口でいうと、ハイカラな
お延は堀の
次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この
最後に
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を
玄関の
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな
お延はこの
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより
けれども
相手に心得があってわざと
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない
どこに
お延は次に藤井から入って行こうとした。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の
彼女はお秀が自分の風呂の
最初夫人の名前がお延の
すると第二の予想外が
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この
お延に比べるとお秀は
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々
問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく
子供がすでに二人もあって、万事自分より
やがてお延の胸に
最後に彼女はある時機を
「そう云われると、何と云っていいか
お秀の
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、
「まだその上に愛されてみたいの」
この
「まだ何か不足があるの」
こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという
彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、
「そりゃちょっと解らないわ」
お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、
「
お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は
「大丈夫
」疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「
お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
お延は叩きつけられた
「だけど
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって
お延の
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども
「あら、あたし何にも知らないわ」
こういったお秀は急に
とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
お延にはもう
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、
お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の
「秀子さん、あなたは
お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、
昨日と今日の二人は、まるで地位を
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような
お延は光る宝石入の指輪を
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
持前の癖を見せて、
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために
お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は
「あたしはまだ何にも悪い事をした
お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お
こう云った時、お延は出来得る限りの
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか
「いいえ。
お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」
その時お秀の涼しい眼のうちに
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「
お秀はすぐこう云って
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような
雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の
「いくら理想だってそりゃ
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから
お秀の顔に
「あたしはどうせ馬鹿だから
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で
お延とお秀が
津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延
彼は看護婦の口から夫人の名前を
彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを
「どうです」
「
お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は
「へえ、そうですか。平生あんまり
「いえそうじゃないの」
津田は夫人の言葉を
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
津田はこう云ったなりその
「何の用だかあてて御覧なさい」
津田は
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは
津田はここで余計な兄妹関係をわざと
「少し
この一語を聞くや否や、津田は
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して
夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの
津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。
津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に
「
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
津田にはどうだか分らなかった。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
夫人は
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」
苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「
夫人はようやく持前の言葉
「秀子さんをさんざん
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし
「それだってお秀のいうような
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを
「苛めやしません。あいつが

「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
夫人の断定には意味も
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の
「でしょうじゃいけません。ですと
津田は首を傾けた。
二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ
津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
世間という
「世間って、みんなの事よ」
津田にはそのみんなさえ
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに
「とにかくこれからよく気をつけます」
しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、
「はあそうですか」
藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を
この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の
実を云うと、彼は「世間」の
第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して
津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の
しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮
夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は
その時の夫人の様子を
「おれに対する
彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。お延と
こういう心得に

「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」
この言葉を
「これは
夫人のいう
津田はやむをえず
「要するにどうしたらいいんです」
夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」
同じ問が同じ言葉で
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」
ここでも津田の備えは手薄であった。彼は
夫人はいよいよ真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
「
「あなたもずいぶんじれったい
津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」
「どうぞそう願います」
「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な
「なに構いません」
「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら
「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」
「そこさえ確かなら無論いいのよ」
「大丈夫です。
すべての責任を向うに
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは
津田は何ともなかった。
「無論です。だから
「しかしそれは
「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」
夫人は
「ごまかしっこなしよ。じゃ
「ええどうぞ」
「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」
夫人はそこでちょっと休んだ。それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな
津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の
途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで
「あなたは
津田は相手の観察が
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
津田は
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」
夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」
津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは
津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく
夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
津田は答えた。
「それは今までついぞ
「この場合に同情者として
夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた
「私の云う事を
津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと
「だけれども――」
「だけれどもでも
どんな注文が夫人の口から出るか
その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み
夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた
「そんなに
「ええまあ
津田にはすべてが
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」
しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を
夫人は
「あなたはその後
「いいえ」
津田の少し
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の
「行きません。行こうたってちょっと行き
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも
津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」
津田は
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは
「そうですね」
津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。
話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」
津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち
夫人はこれだけ云って、言葉に
「
津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
津田は黙ってその
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の
嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
夫人の
「ほかの人には外側も内側も
「奥さんは
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を
「ただ未練未練って、雲を
津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して
はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
夫人は
「ああああ
津田は
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」
問は不意に来た。津田はにわかに
「じゃ質問を
今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは
「誰があっと云ったの」
この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」
「さあ」
津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
夫人は
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」
「あるいはそうかも知れません」
「そんならその時のあっの始末はどうつける気なの」
「別につけようがないんです」
「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」
「ええ。だからいろいろ考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもうやめちまったの」
「いいえやっぱりやめられないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」
夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。
準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」
夫人は急に
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから
「実は
腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの
「ええそりゃよく心得ています」
ここで問答に
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。
「存じません」
「あてて御覧なさい」
津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど
夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに
「あなたもいらっしゃいな」
津田の心はこの言葉を聴く前からすでに
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの
夫人は旅費さえ出してやると云って津田を
旅費を
彼を引きとめる心理作用の性質は
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが
男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に
津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
この答えを
「そんな
津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは
津田は
「つまり色気が多過ぎるから、そんな
津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ
「いえ、思っているのと
津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい
「まさか」
「いえ、そうです。そこがまだ
「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」
津田はようやく行く事に覚悟をきめた。
しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人が
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、
「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」
津田は答えなかった。夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」
夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に
「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」
「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。
「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」
「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、
津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう
いくら津田が
「あの
夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」
夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」
津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」
夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」
「何をです」
「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、
いったん
「じゃ
こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」
この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
堀の
電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその
彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの
彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり
お延はそれ以上にまだ
その心理作用が今
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ
お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に
しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に
「御飯は帰ってからにするよ」
彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の
彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
看護婦は
膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
津田の口の中にはもう
「その代り
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん
看護婦が
「もっと若い
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど
彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。
それは看護婦にとって意外な
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
彼女の名前の頭文字はつであった。
「
「いいえ」
「なるほど
「いいえ」
「待ちたまえよ、
津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を
「お
看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた
「お
彼女は
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
津田の言葉に
「でも
「ああやったよ」
「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」
「うん、少し
「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」
津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」
津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」
「これをもう一遍見てちょうだい」
津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹はようやく彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを
「何にも書いてないから、その
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」
「お前はそれを
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
お延はどこまで行っても動かなかった。相手の
「実は小林が来たんだ」
小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。
「小林なんかに
こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず
「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」
「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」
「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく
「また金を
「じゃあたしが
「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」
「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」
「まあそうだ」
今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、
「まあありがたい事」
津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を
「お前だって、あんな
「いいえ、ちっとも」
「そりゃ
「どうして嘘なの」
「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」
「ええ」
「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」
「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」
「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから
お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。
「ここで小林さんは何とおっしゃって」
「何とも云やしないよ」
「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」
「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを
「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」
津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。しかしお延の
「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな
「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」
「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」
「ほかの人? ほかの人とは」
お延の眼は床の上に載せてある
「あれはどなたが持っていらしったんです」
津田は
盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」
津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。そのくらいの事」
お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の
「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」
津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
お延は答える代りに
「奥さんは何しにいらしったんです」
津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」
お延は夫より自分の方が
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して
「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで
「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」
「いいわ、どっちでも」
津田は夫人の
ただ落ちつかないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を
戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、
なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。なぜ
それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。本当に彼女の
彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ
彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から
「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」
津田はやりきれないという顔をした。
「だからおれは何にもお前を
「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」
「死ぬなんて
「根はあなたのお
「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は
津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を
そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな
彼女の
反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を
お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……
津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の
「
幸いお延がお秀の後を
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」
「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、
お延は行きつまった。彼女には
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに
お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」
「想像がつかない?」
「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
これだけ繰り返した津田はいったん
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの
お延の声は緊張のために
「あなた。あなた」
津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは
津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」
津田は
彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり
波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「
彼は
お延にはまたお延で
けれども自然は思ったより
それは
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」
「ここを出たらすぐ行こうよ。
「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」
津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」
気の
「ね、行ってもいいんでしょう」
「そうだね」
「いけないの」
「いけない訳もないがね……」
津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って
「ああ
「ところがだね。……」
お延は
「ところがどうしたの」
「ところがさ。
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
お延は続けざまに
「若い男は
お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
津田は
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の
「まあよく考えて見るさ」
この辺で話を切り上げようとした津田は
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は
せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
津田はまた行きつまった。そうしてまた
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも
お延は
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ
津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない
これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ
ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を
こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに
二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の
うそ
津田の
「
六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ
「いや、もうほとんど止まりました」
出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう
「これが癒り
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
「出るのは
津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない
「
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から
津田はその晩から
療治の必要上、長い事
その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「
「まあその辺かも知れないがね」
津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の
袍お延は笑いながら夫を
「どうなすったの。なんだか急にお
お延は問題の
袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。
袍の中味を見ていた彼の「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる
袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。
無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが
袍やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお
お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
この好い加減な無駄口の前に、お延は
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって
苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃
「いつか一度? だからお前のは
「いいえ
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ
「いいえ、あなたのためによ。だから
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
こう云って立ち上がった彼の
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
小林と会見の場所は、東京で一番
その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも
停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた
もうだいぶ待ち
二人の
々彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な
もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。
大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間
彼は
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の
津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお
「どうだね、ここの
小林は気がついたように
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな
「そうか。君がそう云うなら
「相変らず
津田は少し悪い
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
津田は
「
「本当に
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「
「不味かない、
「そりゃ好い
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の
津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、
「解り切ってるよ。ただ
津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき
この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の

「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の
「ありがとう」
「いや
「へええ。
津田は黙って
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
津田は
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから
津田は薄笑いをした。小林は
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を
津田は心の
「それでどうだ。僕は
小林はここまで来て少し
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。
「よかろう」
「よくないたって、僕のような
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の
津田はてんから相手を
しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、
彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって
小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。
津田は小林の得意が
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
小林は
「そこだ。そう来るところがこっちの思う
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
津田は
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の
津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
津田は一気に
小林は言葉を

茶碗「やあちょうど好い。まだいる」
津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと
「
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。
小林はむっとした津田の顔を
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が
「そうだそうだ。世の中で
何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を
小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」
小林は出て行く女伴の
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」
彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が
津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
小林は
「
「結果は今のごとくさ」
「大変
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても
「馬鹿いうな。そんな
「実は」と云いかけた小林は、その
「実はどうしたんだ」
「実はこの
津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
小林は相手の調子と顔つきを、
「
「心配はしない。今になってそのくらいの事を
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
津田の声は案外大きかった。行儀よく
「
彼は
「いったいあの
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は
「そりゃ当り前さ」
「だから
「いつそんな
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に
「そう頭から自分の
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの
「そうしてそれが君の
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから
「構わない、
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を
津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが
小林は新らしい十円
「三枚あるね」
小林は受け取ったものを、
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の
「誰でもない、余裕さ。君の
小林は眼をぱちぱちさせた
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる
小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ
津田はほぼ小林の言葉を、
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の
彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな
津田はこれだけ云って
「何も好んで友達の夫婦仲を
「僕は君に関して何も云った
「しかし
「先刻は
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の
それが先刻大通りの角で、小林と
実を云うと、自働車の
「小林はああいう人と
こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた
上へ
「おいマントでも取れ」
青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い
「これは僕の友達だよ」
小林は始めて青年を津田に
「どうした。
これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「
小林はたちまちナイフを
「おいこの人の食うものを持って来い」
やがて原の前にあった
この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の
津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
青年は
「
津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
津田はだんだん
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は
給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して
「ちょうど今一枚
「
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで
津田はこの問答を聴いてほっと一息
二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする
「もう
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに
原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを
「どうぞお構いなく」
津田が軽く
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく
仕方なしにまた腰をおろした津田は、
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、
小林は右の手で
「
芝居じみた
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、
「間違えて
「なに札は大丈夫だ。ほかの
小林は減らず口を
「おやないぞ。変だな」
彼は左胸部にある
「何だ
小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。
「うんここにあった」
彼の
「実は
封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
ペンで原稿紙へ書きなぐるように
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて
叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は
叔母は最初から僕が原稿を書いて
こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻
手紙はここで終っていた。
その時
その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか
しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に
彼はそこでとまった。そうして
徊彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
津田はまた
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ
津田は
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
こう云った小林は、手紙を
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
彼はこう云って原の方を見た。
小林の
同時に聡明な彼の頭に一種の
「
こう思うのと、大通りの角で
「これがこの
彼は
外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした
この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に
その上津田のこの判断を確めるに足る事実が
やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に
「はあ」
原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる
「そうだね。それが一番いいだろう」
小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
表へ出た三人は
「じゃ失敬、僕は
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、
「僕に云わせると、これも余裕の
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に
これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは
「
時間通りに起きた津田は、
「ことによると、お
お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日
「おれもそのつもりだ」
冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し
「そう、でもあたし
「遊んでおいでよ。構わないから」
お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人
周囲の混雑と対照を
「あいにくなお天気で」
それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し
書生は手に持った
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
汽車が出る時、黙って丁寧に
お延の気を利かして
雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の
彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
これが相手の答であった。相手というのは
この
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
「何たかが雨だあね。
「だが荷物が
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを
二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。
津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり
汽車が目的の
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で
津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
彼はこう云って隣りにいる自分の
この
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも
大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を
基点に当る
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
「今日は
爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八
「あんな時に女なんか
彼は自分の
軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている
「まだ
本式の橋が去年の
「あの
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ
津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の
彼の頭の中は
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている
「あいつは
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど
比較的
「どうしたんだ」
爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
急に予言者らしい
「どうせ
爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た
「全くだ」
津田は後れた時間を案じながら、教えられた
「おれは今この夢見たようなものの続きを
この感想は一度に来た。
彼はやがて
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて
「
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に
すると突然津田の心が
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お
「
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八
「じゃ今がちょうど
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その
一方には空を
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と
冷たい
「運命の
詩に乏しい彼は
「着いたようじゃないか。君の
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな
宿は手代の云った通り
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは
彼は清子のいる
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて
「お湯にいらっしゃる時、この
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、
寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて
風呂場は板と
「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために
袍「ああ寒い」
津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「ごゆっくり」
戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。
「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」
来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の
「いったい何階なのかね、この
下女は笑って答えなかった。しかし用事だけは云い残さなかった。
「ここの方が新らしくって
湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「ありがとう。じゃ
「ええ。
「うん、少し悪いんだ」
下女が去った
「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」
彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。どっち
「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を
津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
彼には最初から三つの
この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、
思いのほかに
人のいない大きな
その時不意にがらがらと開けられた
生れてからまだ一度も顔を合せた
婦人は
「おや、失礼」
津田は自分の方で
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな
「
津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に
彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
勝さんのこの
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお
「お済みって訳でもないが」
次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは
「おやそうですか」
「どこか新らしく
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」
二人を案内したらしい風呂場の戸の
「今晩は」
四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「
彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」
「そうだ」
勝さんは
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが
「はてな、もっと
電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにも
手を鳴らす
廊下はすぐ尽きた。そこから
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の
あたりは静かであった。
彼はすぐ水から視線を
彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の
しかし彼の
するとその二階にある一室の
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を
「誰でもいい、来たら方角を教えて
彼は決心して
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。
彼女は普通の
彼女の姿は
清子の
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと
やがて遠い廊下をぱたぱた
その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、
彼は室に帰ると、いつの間にか気を
彼はこの
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
彼は実際廊下をうろうろ
「この
こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して
しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも
彼女は
かくして互いに
彼は煙草へ火を
袍
袍に対してお延に使ったお「どっちが好いか比べて御覧なさい」
袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも
袍「お延と清子」
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に
彼が
「お早う、
「君だったかね、
「へえ、お邪魔様で」
「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い
「いえ、御覧の通り
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに
「はあ、そりゃ」
二人がこんな会話を取り
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は
女は番頭に
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに
「じゃちょっと伺って参りましょう」
「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう
二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で
しかし探すなどという
風呂場には軒下に
崖の上には
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで
すでに裸になって、
それは
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は
昨夕湯気を抜くために
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか
「なぜって、
下女は答える代りに、突然清子を
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお
「するとちょうど
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。
津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し
「
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその

「もう年寄だろうね」
「ええお
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を
食後の津田は
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を
「どういう
「理由も
「畜生ッ」
津田は突然
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが
事実よりも
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。
「おれに何の
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に
夢のような罪人に宣告を下した
「これじゃ
しかし
思いついたように
「
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を
返事を待ち受ける間の津田は
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの
津田は女の
「
下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を
「おやどうもすみません、
やっと安心した津田は、立上りながらわざと
「本当かい。迷惑じゃないかね。
「
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。
客商売をする宿に対して悪い
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「
「天眼通じゃない、
「まるで犬見たいですね」
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を
「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は
「御免下さい」
室は
「すべてが
突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
しかしこの距離はどこから起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。では、なぜそれを忘れていたのだろう? 考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
津田がこんな感想に
しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を
津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも
「あの
疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。もし津田が
「また何か細工をするな」
彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ
「相変らず緩漫だな」
緩漫と思い込んだあげく、現に
その上清子はただ
「
重そうに
すると清子はその
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら
「どうもお
これが始めて彼女の口を
「
「あらどうして」
津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中
津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。
「相変らずあなたはいつでも
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって
この
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら
「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
彼女は
「
「部屋どころじゃないよ。お前の
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
下女はこう云って立ち上った。しかし
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
日当りの好い
彼女の顔は、
こんな場合にどっちが先へ口を
ところが清子を前へ
二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後
津田は何の気もつかなかった。会話の
しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお
「ああそうですか。僕も
「
「そうですね」
こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と
しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に
「どうしてそれが不満足なのか」
津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの
表で認めて裏で
「
津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の
「
清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は
もしそれを
「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」
「じゃ
「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」
「でも私への
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」
「そうですか知ら」
「だって、わざとあんな
「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」
津田は水盤に
「
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、
「なるほど、そりゃそうね」
清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと
「いったい何だって、そんな事を
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
単純なこの
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった
今まで困っていたらしい清子は、この時急に
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。
「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃいけません」
「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。
「なるほど」
津田は腕を
しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は
「しかし
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん
「それで」と云いかけた津田は、
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう
ナイフの持ち方、指の運び方、
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「
清子は
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして
「なるほどあなたは
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
津田は清子の
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」
清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の
「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」
津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、
「ああこの眼だっけ」
二人の間に何度も繰り返された過去の
二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」
津田の疑問と清子の疑問が
眼で逃げられた津田は、口で
「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
津田はつい「こっちでもその訳を
「それであなたもどこかお悪いの」
津田は言葉少なに病気の
「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の
「関君こそ
「
「いや僕のいうのは
「まあ、お上手だ事」
この時下から急ぎ足で
「あの浜のお客さまが、奥さまにお
「お
「ありがとう。時にもうお午なのかい」
「ええただいま御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の
――未完――